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病院紹介

病院の沿革

月島・佃島と中央サマリア病院の歴史

1)佃島の発祥

天正10年(1583)明智光秀による「本能寺の変」の時、堺にいた徳川家康は身の危険を感じ、急いで三河への脱出行動を開始し、三河とは逆の方向、大阪、兵庫の海辺へと急ぎました。神岬川を渡ろうにも、船がなく困っていた一行に素早く手持ち舟や、漁船を集めてきたのが、摂津国佃村(現、大阪市西淀川区 佃町)の漁民でした。
 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸幕府を開いた時、家康は佃村の漁民33名を江戸に呼び、漁業をさせます。家康たちの食膳に出す魚をとることになった彼らは、はじめ大名の邸内などにいたのですが、その後、石川島(隅田川が運んでくる土砂の堆積によって、自然にできた洲島を石川八左右衛門重次が拝領したのが1626年のことで、石川島と名付けられた。)に近い所を漁民自身で埋め立て、そこに住むことになりました。正保2年(1645)のことです。佃村の人たちが造った島ですから、名付けて佃島としたのでした。佃一丁目というのは昔の佃島で、これを囲む石川島の部分が現在、佃二丁目になり高層マンションが林立しています。


伊能大図彩色図の中の佃島(右下)


佃島と石川島の間を埋め立てて人足寄場をつくったのは、かの火付盗賊改メ方長谷川平蔵だそうです。1790年当時、江戸には30万人くらいの無宿人がいて、彼らをこの島に送り込んで仕事を覚えさせ、その中でも能力のある者にまとまった金を与え、人を雇わせて商売をやらせたそうです。この人足寄場は、その後石川島懲役場になります。さらに幕末1853年、ペリー来航に脅威を覚えた幕府は、水戸藩主徳川斉昭に命じて、ここに石川島造船所をつくらせました。石川島播磨重工の誕生です。この造船所は渋沢栄一や鍋島藩、宇和島伊達藩の出資を受けた民営造船所として、数々の先駆けとなる船舶や飛行機、橋や重機をつくりました。(懲役場は巣鴨へ移転し巣鴨プリズンを経てサンシャインシティーとなる)

2)月島の発祥

月島は埋め立て地です。現在の月島の最初の部分(1号地)ができたのは、明治29年(1896)でした。東京にも立派な港を造る必要があるという考えが広がり、そのため、隅田川の流れを品川寄りにして東側に人工島を造ることになったのです。そうして造られたのが月島です。名前の由来は「築島」の字を変えたものとも言われています。(月島という正式な地名は1891年の東京都議会で決定されたものです。)具体的には、明治29年(1896)の東京湾澪浚(みおさらい)工事によって浚渫(しゅんせつ)した土砂を利用して第1区(月島1号地)、第2区(月島2号地)、新佃島が埋め立てられました。


「埋め立て直後の月島」

3)工業化と共に発展


日露戦争(1904年/明治37年2月に開戦し、18か月にわたって戦われた)に関連した工業化の波などで造船業・鉄鋼業が一層の繁栄をすることになり、石川島~月島は、ほとんどの部分が石川島播磨重工の工場で占められるようになりました。(石川島播磨重工は第二次世界大戦前に、造船部門を隣の豊洲に移したので、月島には鉄鋼部門が残りました。)
当時の月島には水道がなく、舟で来る「水売り」に頼っていたため、なかなか人口も増えず町づくりも進まなかったため、現在の江東区との間に相生橋をかけ、明治36年(1903)に橋を通じて水道が引かれました。橋もでき水道も引かれ、石川島造船所も活発になると、周辺に関連の工場も増え、造船所関係で働く人の住居として最適な地でもあったため、だんだん人口も増え、月島地区は石川島播磨重工とともに発展していきます。明治38年、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として「勝鬨の渡し」が設置されました。(後の勝鬨橋の名前の由来)


「大正時代の月島」

4)そして外科医院として開院


明治40年(1907) 当時は佃島に隣接する埋立地だった月島に栗田 勇医師が「栗田医院」を開院しました。当時の月島は造船業と鉄鋼業の繁栄で多くの町工場があり毎日のように怪我人が絶えない地域でした。栗田医院は地域密着型救急病院として生まれたわけです。その後、医院の経営は栗田正夫医師に引き継がれ、「栗田外科病院」として昭和28年に生まれ変わりました。第二次大戦後の月島はヤミ市ができ、活気がありました。


【明治・大正期の埋立地一覧図】

5)昭和になり勝鬨橋も建設


昭和初期には既に月島には石川島造船所(現石川島播磨重工)の工場などが多く完成しており多くの交通需要があったため、1929年(昭和4年)「東京湾修築計画」に伴って勝鬨橋の建設が決まりました。この当時は隅田川を航行する船が多かったため、大型船も航行できるようにと可動橋として設計・建設され、1940年(昭和15年)に完成しました。1940年には「皇紀2600年」を記念して月島で国際博覧会が開催される計画もあり、勝鬨橋はその会場への主要幹線道路でした。しかし、日中戦争の激化で博覧会は中止されてしまいました。



6)埋め立ては進み、海の玄関口となり月島は分割された

大規模な浚渫工事の結果、当初の月島は1丁目~12丁目までに渡る広い地域になりました。高度経済成長期は、戦後の陸上交通の荒廃から水上交通に対する再認識が生まれ、晴海を中心に、東京の海の玄関口としての開発が進められ、昭和30年(1955)、2万トン級の船の接岸が可能な、国外航路と直結する晴海埠頭が完成しました。同じ年に、東京初の国際見本市も開催され、昭和34年(1959)には、国際見本市会場(国際貿易センター)ができました。こうした発展に伴い、月島・晴海地区には戦後、続々と大規模な住宅団地が建てられ、人口が急増しました。中央区の中では最も人口の多い地区となったのです。しかし1965(昭和40)年から新住居表示が始まり、月島の南部は「勝どき」(勝鬨)、運河に隔てられたもう一つの島は晴海として分割されました。(そのため、月島警察署、消防署の月島出張所、月島第二小学校、月島第二幼稚園、月島倉庫、月島埠頭などなど、月島と名の付くものが勝どきにあるのです。)

7)サマリア病院誕生から地域の再開発


昭和48 (1973) 年、栗田病院を新築する過程で、吉岡 隆医師に経営をバトンタッチしたことをきっかけに「月島サマリア病院」として再出発いたしました。月島サマリア病院時代は人工透析がちょうど普及し始めた時代だったため、この分野で多くの経験を積みました。この状態で平成18年6月に法人化し、「中央サマリア病院」と改名し、経営も現職の鈴木康司医師に移ったわけです。
月島は、工場や港湾関係の施設、従事者の住まいも混在していたため、近年になって、街全体の再開発が求められるようになってきました。月島・晴海地区で、真っ先に大規模な開発がスタートしたのは佃にある「大川端・リバーシティ21」です。昭和61年(1986)に着工され、平成12年(2000)に完了しました。この地区は、石川島播磨重工業の工場跡地を中心に、整備されました。また、現在、同じ月島の月島駅前地区で、第一種市街地再開発事業が進められています。月島駅前地区は、関東大震災の震災復興住宅として建てられていた、長屋形式の木造低層住宅の密集地なので、建物の老朽化ともあいまって、防災上の問題などを抱えているのです。今後、月島地区は大きく様変わりするでしょう。町並みは変わっても、下町の人情は忘れたくないものです。
                     【昭和40年代の月島西仲商店街】
医療法人社団クリタ会 中央サマリア病院
〒104-0052東京都中央区月島1-5-4
TEL:03-3533-8981
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